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高岡茂夫さん/輝ける拓銀の記憶

4 時間前
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【住区BOX⑥】

 能美防災北海道支社(札幌)顧問の高岡茂夫さん(76)は北海道アマ野球界の第一人者として知られる。大阪で生まれ、東京の法大を経て、1972年に社会人野球の北海道拓殖銀行(拓銀→たくぎん)に入行。内野手として活躍した後、同行監督、JR北海道監督、札幌国際大監督を歴任し、高校野球の解説者としても人気を博した。2回掲載の1回目は、拓銀時代の寮生活を振り返った。(村野森)


高岡さんと拓銀のマスコット「たくちゃん」72年札幌五輪バージョン
高岡さんと拓銀のマスコット「たくちゃん」72年札幌五輪バージョン

プロもうらやむ総合野球施設


 50年以上前の北海道に、プロもうらやむ総合野球施設があった。札幌市清田区平岡のイオンモールがあるあたりに通称「たくぎんの森」があり、野球場、室内練習場、独身寮、テニスコート、体育館が隣接して建てられていた。本州育ちの高岡さんが拓銀の「平岡寮」に入寮したのは72年。極寒の2月だったが、雪や寒さより豪奢な施設に圧倒された記憶のほうが強い。


 高岡さん(以下敬称略)室内練習場にボイラーが入っていて、至れり尽くせりの環境でした。苗穂にある今の日本ハム室内練習場みたいに内野がすっぽり入る大きさで、雪の影響を受けずにノックも打撃練習もできるんです。真冬でもTシャツで汗だくになりました。水をまいてもすぐに土が乾燥して宙を舞うから、耳の穴から鼻の穴まで真っ黒になりました。


 高岡さんが入行する数年前、施設の評判を聞いたヤクルト・アトムズ(現スワローズ)の中西太さんが見学に訪れ、その後71年に本拠地神宮に室内練習場ができたという逸話もある。プロが真似るほどの施設の維持費は、年間約5000万円。遠征時は、センバツ出場が決まった高校などに貸し出された。


 高岡 独身寮も至れり尽くせりでした。6畳くらいの1人部屋が2階にあり、風呂、トイレは共同でしたが、真冬でも暖かくTシャツ1枚で過ごせました。大阪や東京では考えられない環境です。部外者用の客室もあるし、娯楽室もありました。何より食事が豪華でした。当時でいえばですが、プロよりいいと言われていました。


 食事がよくなったのは、高岡さんが入行して4年間、都市対抗に出場できなかったことがきっかけ。会社が原因を徹底研究し、食事に問題ありと結論づけた。寮監を務めていた夫婦が管理栄養士の資格を持っており、カロリー、バランスを管理。豪華メニューを朝晩提供した。70年代は拓銀、大昭和製紙北海道、電電北海道、新日鉄室蘭、王子製紙苫小牧が北海道5強としてしのぎを削った時代。負けるわけにいかなかったのだ。


 高岡 28歳のときに結婚して社宅暮らしになりましたが、独身ならいつまででも居られたはずです。


 札幌南支店に配属された高岡さんは、午前11時30分まで地下の作業場で出納係として働いた。硬貨をまとめた束を数本まとめてパッキングした通称「マグロ」を、台の上にまいてバラの硬貨に分ける仕事。昼食をとった後、大通公園に集合し、バスに20~30分揺られて練習場へ。個人ノックでヘトヘトになった後、夕食後に夜間練習。そして、6畳の部屋で泥のように眠る。78年日本選手権優勝&MVP&社会人ベストナイン選出など華々しい成績を残したが、原点は当時最高の環境での野球漬けの生活にある。


 高岡 銀行では「仕事もせず遊んでばっかり」という目でも見られたけど、選手時代は毎日支店と練習場の往復で、ススキノなんてほとんど行けませんでした。


 一世を風靡したたくぎん野球部は、悲劇の舞台となったことでも知られる。母体の北海道拓殖銀行が97年に経営破綻し、その前年に活動停止。現役を退いた高岡さんが監督として5年間チームを率いてから、7年後のことだった。


 ◆高岡茂夫(たかおか・しげお)1949年12月27日生まれ、大阪出身。内野手。北陽(現関大北陽)―法大から北海道拓殖銀行へ。引退後に監督を5年務めた後、日本代表コーチ、日本野球連盟技術委員などを経て、01~10年JR北海道監督、18~20年札幌国際大監督。高校野球解説者としても知られた。現能美防災(株)北海道支社顧問。



 


(第1161号 2026年9月16日 引用)








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